小池真理子さんの話題作。
どのエッセイも苦しいが、とりわけ気になった章が二つある。
一つは『夢のお告げ』という章。もう一つは『祈り』という章である。
『祈り』という章。
末期癌が見つかったら、あとは何もしないで死んでいくのがおれの理想、というのが彼の口癖だった。
そのため、いきなり肺がんの末期と宣告されても、意外性はなかった。ほらね、やっぱり、なるようになっちゃったね、仕方ないね、という感覚。それは不思議なことに、ぎりぎりのところで私たちを救った。
そんな”死に方の理想”を、元気なうちに唱える必要はない。
全くない。
そんなものに救われてどうするのだ。
まして言葉を自在にあやつる職業の人間が、安易に発してはいけないのだ。
近づこうとしてくる死神を息を荒らげながら追い払い続けた
小池氏はそう書いているが、理想の死を唱え始めたときから、死神はその理想の匂いを嗅ぎつけて近づいてくるのだ。
そして「夢のお告げ」という章。
夫は、元気だった時、自分の死期を予告される夢を、三度見ているという。
夢の中で、「おまえは七十三で死ぬ」という【お告げ】が三度あった。
そのため彼は「おれは七十三で死ぬよ」と決めつけて、そのくらいがちょうどいい、とうそぶいていた
藤田氏は実際には七十前に亡くなっているので、お告げはただの夢であったといえるが、本人の心身に与えた影響は、存外大きかったのではないかと思う。
夢のお告げは暗示として、ボディブローのように少しづつ、心と体、両方の細胞を侵食していったのではないか。
すべての暗示は自己暗示だ、と言われている。
言葉は、同じ言葉でも、ときに陽気なおまじないの言霊となり、ときに呪いの言霊になる。
自分の主観がどう捉えるか、どう信じるかの世界だ。
「自分は○○才で死ぬ」
「長生きなんぞしなくていい」
うそぶく人は、案外多い。
しかし実際、本当にその年齢で亡くなった人を、何人か知っている。
知らず知らずのうちに、自らの言葉にからめとられてしまうのか、この章を読んで、何人かの亡き人を思い出した。
息が詰まった章だった。
非常に重苦しい気持ちで、この本を読み終えた。