死別した家族への悲痛な思いを語った本を2冊、読んだ。
その一つは小池真理子氏の『月夜の森の梟(ふくろう)』。
魂が血を流しているような本だ。
小池真理子氏の夫・藤田宜永氏は、2020年1月に肺がんのため逝去された。
共に直木賞作家で、軽井沢に暮らす都会の空気をまとった夫婦だった。
「月夜の森の梟(ふくろう)」は、夫の死後、一人森の中で暮らす小池真理子氏の悲嘆の日々を、新聞連載したものだ。
死は非常に個人的な体験だが、形は違えど、ああ自分もこうだったと、作品の中に自分の心を投影する人は多いと思う。
同じように悔やんだ、同じように何度も反芻した、同じように失い続けた、と。
優れた作家の本を読んで感じるのはいつも、”自分の中に存在している、あるいはわきおこった形にできない想いを、作家が言葉にしてくれた” ことだ。
ああそうだったんだ、自分の気持ちはまさにこうだったと、心の中に漠然と存在していた”もや”のような想いが、いま目の前に文字になって現れたときの驚きと、ようやく一息つけたような妙な安堵。
もちろん小池氏が語るエピソードは、自分のそれとは全く違う。
だがなぜか、我も似たような体験を持ち、まるで自分のことのようだと驚く。
厳寒期の軽井沢にいるはずのない白い羽の蛾が現れた。もしや、彼が遊びに来てくれたのかもしれないよと、猫に語ってみる
同時期に愛妻を失った友人は、以後、深刻な癌を奇跡的に克服したという有名人の映像がテレビで流されるたびに、思わず気持ちが乱されて目をそむけてしまう、そういうことは見たくないし、知りたくない、という
夫の学生時代の後輩という男性から送られてきたお悔やみの手紙には、自分が知らない夫の言動がつつづられており、知らないことが山のようにあったと気づく
見知らぬ他人が語る体験が、自分の個人的体験と重なる不思議さは、悲嘆を持つもの誰もが感じることではなかろうか。
小池氏は言う。
何もかも、余すところなく知り尽くしていたはずなのに、知らないことが山のようにあったと気づく。死が時間を止めてしまったように感じるのは、永遠に知りえなくなったものを残すからだろう
モチーフは違えど、心が感じるエッセンスは同じだ。
大切な人の死という究極の個人的体験・心象は、あるいは人類共通の集合的意識の中に流れる大河のようなものなのかもしれない、と思う。いや大河ではなく、川底の一粒の小石か。
悲嘆を持っている人には、それほどまでに迫ってくるエッセンスであり、苦しい。
正確無比に時は流れていく。一昨日の晩は、梟(ふくろう)の初鳴きを聞いた。空には満月。森のこちらとあちらで鳴き交わす彼らの声に包まれながら、ふいに現実感が遠のいた。時と共に記憶が薄れてほしいのか。あの時のまま、いつまでも生々しくあってほしいのか。わからなくなって、思わず天を仰いだ
自分自身、大切な人が亡くなった年の暮れ、想像もしていなかった想いがわきおこった。
それは、
【このまま年が明ければ、その人が生きていたのは”昨年”のことになる】という、絶望的な気持ちだった。
その人は
【ついこの間】亡くなったのではなく、【昨年】亡くなった、という変化。
【ついこの間】まで元気だったのではなく、【昨年】は元気だった、という変化。
大みそかから元日へと変わることは、物理的にはたった一夜だが、元気に暮らす人にさえ、その一夜は大きな変化をもたらす。
いわんや。
絶望的な苦しさが押し寄せたことを、よく覚えている。
まるで12月は、二度目の死へのカウントダウンのような日々だった。
【あの時のまま、いつまでも生々しくあってほしい】
少なくても自分にとっては、いつまでも故人の存在は生々しくあってほしかったのだと、この本を読んで、わかった。
過ぎ去ってほしいわけがない。
生々しい生(せい)の記憶が薄れてほしいわけがない。